江古田 大学と美容院の街


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江古田のなりたち 02 : 練馬の江古田の始まりと終わり

このページでは、明治以降の練馬の江古田についてまとめていきます。
まず、明治初年の行政単位のゴタゴタを確認した上で、江古田駅付近の発展の経緯をみながら、「練馬区の江古田」が成立する過程を概観します。

近代の江古田01:行政区画の変遷

明治以降、数度の地方制度・区画の変更があったが、「江古田」という地名自体がなくなることはなかった。
東京の行政区画の変遷にしたがうと、以下のようになる。
ただし、「練馬の歴史と練馬区のなりたち」ページで述べたように、明治初年の行政区画の動きは複雑なため割愛する。

板橋側(旧・江古田新田/現・江古田駅周辺)

1871年/明治4年
大区・小区制
「東京府第4大区17小区上板橋宿板橋口」
「江古田」の扱いについては不明。
おそらく、江戸期の小名の「江古田」が継続しているものと考えられる。

1872年/明治6年
「東京府第9大区4小区上板橋宿」に再区分。

1878年/明治11年
郡区町村編成法
「東京府北豊島郡上板橋村江古田」

1897年/明治22年
市制・町村制
「東京府北豊島郡板橋町上板橋村江古田」

1932年/昭和7年
東京35区制
板橋区が成立。「東京府東京市板橋区江古田町」となる。

中野側

1871年/明治4年
大区・小区制
「東京府第8大区7小区江古田村」

1878年/明治11年
郡区町村編成法
「東京府東多摩郡江古田村」

1897年/明治22年
市制・町村制
「東京府東多摩郡野方村大字江古田」
このとき、中野側の江古田村は、上・下沼袋村など他6村と合併し、「野方村」になっている。

1904年/明治29年
東豊多摩郡は南豊島郡と合併し、「東京府『豊多摩郡』野方村大字江古田」になる。

1932年/昭和7年
東京35区制
中野区が成立。中野区側は「東京府東京市中野区江古田」となる。

近代の江古田02:江古田駅周辺の発展

「江古田の成り立ち01」で述べたように、江戸末期にいたるまで「江古田新田」は人口が多かったわけではない。
それでは、どのようにして江古田新田/江古田駅周辺は栄えるようになったのであろうか。
以下、明治期からの地図を確認することで、発展の様子の一端をみることとする。
掲出しているのは「陸地測量部」およびその後継の「国土地理院」による地図(5葉)である。

  1. 1888年/明治20年測図
  2. 1923年/大正12年測図
  3. 1932年/昭和12年測図
  4. 1945年/昭和20年測図
  5. 1962年/昭和32年測図

大正末期から昭和初年にかけての江古田駅周辺の変化は興味深い。
1923年/大正12年の秋におこった関東大震災を機に、東京西部への人口流入が生じている。武蔵野鉄道江古田駅の開業は1922年/大正11年だが、開業から10年での変化はそれを受けてのものであることを伺わせる。

なお、あらかじめ、1888年/明治20年の地図にもとづき、主要道路・ランドマークなどを確認しておく。

明治20年頃の江古田駅周辺の地図
大正12年頃の江古田駅周辺の地図
昭和12年頃の江古田駅周辺の地図
昭和20年頃の江古田駅周辺の地図
昭和32年頃の江古田駅周辺の地図
 (貝塚 et.al 1996)

練馬区江古田の始まりと終わり

練馬区への編入

練馬区独立(1947年/昭和22年)に際して、旧板橋区江古田町および小竹町は、練馬区に編入された。
これは、以下の経緯による。

1944年/昭和19年、板橋区に練馬支所が設置された際、江古田・小竹の両町は、練馬支所管内におかれることになった。

なお、桑島は、さらにその前段階があるとしている。すなわち...
明治以降、江古田・小竹は、板橋警察署江古田駐在所の管轄であった。
1937年/昭和12年、練馬警察署の新設にともない、江古田駐在所は練馬警察署管内におかれることとなった。(桑島 1984)

これらの事情がかさなり、また勘案された結果、江古田・小竹が練馬区に編入されたのだろう。

旧板橋区時代に、なぜ「練馬警察署」「練馬支所」管内に編入されたのかは不明。
うがった見方をするならば、当該地区が多摩郡江古田村の新田だったという経緯から、豊島郡上板橋村とは別物(だから板橋管内から切り離そう)という意識が残されていた(働いた)ためかもしれない。
ただし、この仮説では、小竹がともに編入された理由を説明できない。

町と町の名前

練馬区独立の時点で、江古田駅周辺は、江古田町と練馬南町のふたつの町から構成されていた。
しかし、独立後に発行されている文献において、駅周辺でも「江古田」と表記されるケースが散見される。(練馬自治振興会 1952年)
これは、駅周辺の住民の間で「江古田-町」という表記・表現が定着していないことをうかがわせる。あるいは、江戸期以来の小名の意識・記憶が残っていたのかもしれない。

練馬南町は、現在の栄町(さかえちょう)・羽沢(はざわ)・桜台を含み、練馬駅方面まで拡がる大きな町だった。
練馬南町は、1932年/昭和7年の行政区画変更時に設置された。(もちろん、当時は旧板橋区。)
なお、1949年/昭和24年、「南町」に町名変更がなされた。これは、練馬区独立にともなう措置にもとづくものである。

江古田駅周辺の町名変更の時期と対照表

練馬区は昭和30年代から町名地番整理を開始している。

1960年/昭和35年7月1日
江古田町 → 旭丘1〜2丁目

1962年/昭和37年3月1日
南町1丁目 → 栄町および羽沢1−3丁目
南町2丁目 → 桜台1−3丁目

「江古田」の返還

上記のように、1960年から、江古田新田以来の「練馬の江古田」はなくなることとなった。いわば、江古田の名前を本村に返却したようなものである。
その理由について、須藤は以下のように記している。
第2次世界大戦後、人口の増加・町の発展が進むにつれ、訪問者・荷物・郵便物の量も多くなってきた。
ところが、「このため中野区の江古田と間違えて困る人が多く苦情を訴えるので、練馬区と地元は昭和三十五年七月から旭ヶ丘(ママ)一、二丁目としたが、江古田駅の改名は、困難なためそのまま残された。」(須藤 1981)
「返還」にいたるまでの経緯は不明。

新しい町名の由来

桑島は、町名の決定について以下のように述べている。(桑島 1984-1986)

旭丘は、住民投票の結果、旭丘小学校の校名にちなんでつけられた。
同校は、1934年/昭和9年に上板橋第2尋常小学校分教場としてスタートし、1938年/昭和13年に上板橋第3小学校、さらに練馬区編入時に旭丘小学校となった。
旭丘という校名は、上板橋第3小学校校歌の一節「のぼる朝日に...」にちなんだという。

栄町は、江戸期の下練馬村の小名「羽根沢(はねざわ)」内に位置する。
明治期、羽根沢は「羽根木(はねぎ)・北羽沢(きたはねざわ)・南羽沢・羽沢前(はねざわまえ)」にわかれる。(栄町は「羽沢前」内に属した。)
さらに、上述のように、昭和7年の区画変更で練馬南町が設置された際、羽沢地区は南町1丁目に配された。

1960年の町名地番整理時、南町1丁目は、明治期の4つの小名にあわせて「羽沢(はざわ)1-4丁目」となる予定だった。
しかし、駅周辺の商業地域と他の住宅地域とで意見の相違があり、「旧・羽沢前=羽沢1丁目予定」が「栄町」を名乗ることになった。(よって、現在の羽沢は3丁目までしかない。)

「栄町」の町名は、練馬区の表玄関としての町の繁栄を願ってつけられたという。

わたし/catの余談
東京オリンピック(1964年/昭和39年)の開催を前にして、東京のみならず日本のあちこちで、由緒ある地名を廃止し無機的な町名変更が行われていた。
また、日本橋の上に高速道路を走らせてしまう愚挙も、この時期の国/都の所業である。
やんぬるかな。

そして今

2002年現在
中野区:江古田という地名・町名が存在する。
練馬区:江古田という地名・町名は存在しない。駅名にのみ「江古田」の名前が残る。

駅名と地名の不一致は珍しいことではない。西武池袋線の隣駅である「東長崎」も同様で、東長崎という地名は存在しない。

それにしても、どのようないきさつで、(江戸期に)異なった郡で同じ村名が併存し得たのか。練馬区が「江古田」の名を手放す(^_^; に際して、どのような経緯があったのか。
ここまでくると、わたし/cat の手に負えませんが、興味深いことではあります。

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